脳内写生3

脳内写生は選ばれた少数の例外者のための案内表示であり、「飾り窓の天使」と連携したブログです。

脳内写生は選ばれた少数の例外者のための案内表示であり、「飾り窓の天使」と連携したブログです。

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壇蜜は「マゾヒズムはサディズムの延長」と発言したそうですが、実はサディズム裏返しがマゾヒズムではなく、マゾヒズムの裏返しがサディズムでもありませんし、「マゾヒズムはサディズムの延長」もなく、「サディズムがマゾヒズムの延長」でもありません。
さらに、サドがSM(サディズム・マゾヒズム)の元祖ではないし、マゾッホがSMの本家でもありません。

サドは大衆から未来永劫「誤解されることを名誉」と信じた例外者であり、性欲と妄想の解放者、大衆にとっての性欲のテロリストなのであり、マゾッホは全能の支配者に全身を丸ごと差し出すことに喜びを感じるキリスト教的あるいは隷属を好む大衆の心理を描いた小説家にすぎません。

私は「飾り窓の天使」のアーカイブ「脳内写生」の2008年9月13日のブログ「ドS・ドM」において、私は次のように書きました。

【最近、「あの人はドSだ」とか「私はドMなんです」などと冗談めかした言い方を良く聞きますが、「ドS」「ドM」は、もともとはダウンタウンが広めた造語であって、「ドS」はサディストの傾向が特に強い人のことであり、「ドM」はマゾヒストの傾向が特に強い人を意味しているのだそうです。
この「S」「M」と言う我が国特有の言い方は、これまで性的プレイの用語としてしか使われていませんでしたが、ダウンタウンはこの「S」「M」という概念を、人間の性質や性格にあてはめ、攻撃型な人を「ドS」、受身型の人間を「ドM」と分類してTV番組で連発したため一般に広まったものです。
「SM」については、このブログの「性欲のテロリスト」(旧「脳内写生」2006-11-08)で述べた通り、「S」とはサド(サディズム)の頭文字であり、「M」とはマゾッホ(マゾヒズム)の頭文字と信じられていますが、よくよく調べてみるとクラフト・エビングや、ハブロック・エリス等が、これらの小説に登場する人物と小説の作者の人格や行為を明確に区別しないまま、単に攻撃的に快楽を求める者を「サディスト」と命名し、その攻撃を快楽として甘受する者を「マゾヒスト」と命名していたにすぎません。
そもそも小説の作者とその作品は同一の人格ではなく、殺人事件ばかりテーマにする推理小説家が、本物の殺人犯ではないことを考えれば、こうした発想が誤りであることは改めて議論するまでもないことなのです。
しかも、驚いたことにあのにフロイトまでもが、軽率にもこの命名をなんら検証することなく踏襲したため、あたかもこのふたつの概念は表裏をなすものとして今日まで一般に流布してしまったものなのです。
(参考文献「マゾッホとサド」 ジル・ドゥルーズ・要旨)
特にサドは、官能的快楽において「なにものにもとらわれない、なにものにも従属しないこと」を実践した人物なのであり、こうした行為は一種の修行・修法であって、明らかな知的な行為と言うべき試みであり、著者が唱える「脳内写生」という知的作業もこうしたサドの業績を受け継ぐために生まれたものでした】

同様の記述は、「飾り窓の天使」のアーカイブ「脳内写生」の「エロティシズムとは」(2007-02-21)の中で、著者は結局、「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の間にはいかなる関係もなく、サドの小説が実話であるという事実もなく、さらにサディストの裏返しがマゾヒストであるとか、サディストにとって理想のパートナーはマゾヒストであるといった俗説には、いかなる根拠もないことを指摘すると共に、大衆の「SM」と「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の思想には明確な違いがあり、実在の人物の希有な思想と「商品化されたサービスとしてのSM」を混同することは、その人物の功績を著しく害するだけでなく、至高性を追求する者にとって貴重な手掛かりを見落とす重大な過失となることを指摘しました。

つまり「SM」の問題は、大衆化されたエロティシズムの言説が、多くの誤解と無知によって支えられていることを如実に示す最適な実例なのであり、しかも無知なのは大衆ばかりではなく、高名な心理学者もエロティシズムの研究者もこのことをまったく理解していないばかりか、多くの小説家・作家に対しても創作上の主人公の性癖とその作者の人格を混同して「SM作家」と呼んだりしています。
そればかりか著名な作家たちも知ったかぶりをしてサディズムやマゾヒズムを捏造し、「SM小説」なる分野を開拓し、きわめて幼稚な混同や錯誤を改めることなく数百年も放置して来ました。

つまりエロティシズムを探求しようとする例外者は、安易に「SM」とか「サディズム」 「マゾヒズム」という用語を使用すべきではなく、「SM」は、倒錯でもなければ変態でもなく、実体はただ役柄にあわせた芝居であり、「商品化されたプレイ」と見なすべきなのです。

以上のようにSMに関する懐疑(深くものごとを考えること)を繰り返してきた著者にとって、「あの人はドSだ」とか「私はドMなんです」と冗談めかして聞かされるたびに、サドやマゾッホ・ニーチェ・バタイユ・三島らが仕掛けた数百年におよぶ「誤解される名誉の系譜」が、今日もなお生きているとつくづく感じられ、著者はそのことに「大いに安心」しております。

理解できない読者は理解できなくていい、ごく少数の分かる人に分かればいい、それが例外者のスタンスなのです。 

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昨年、わが国でも上映された「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」(直訳:グレイの50の影)と題する」小説をご存じですか?(youtubeに予告篇あり)

欧米では30代・40代の主婦が夢中なっているため、この小説を「マミーポルノ」と呼ぶそうで、いわば主婦向けSM官能小説(映画)なのです。

ネタバレしない程度にあらすじを紹介すると、米国の女子大生と27歳の若き富豪が出会い、やがて二人はSMに溺れていくという純愛ストーリであり、30代40代の女性が読んで胸がときめくような大人の女性のエロティックファンタジーが人気の秘密のようです。

もっとも30代40代の女性が、この小説・映画の影響で突然官能的になったことで、困惑する男性も多数出現しました。

なぜなら、この小説・映画の影響で突然エロくなった女性たち、そして、よりエロテェィックでありたいと熱望・切望する女性たちの出現に男性たちは戸惑い、その欲望や欲求に応じることができなかったからです。

女性が性欲に対して罪悪感を覚えることなく、これまで抑圧されてきた性欲にめざめたとき、もともと女性の官能的快楽には際限がありませんので、男性はこうしたあからさまな女性の欲望や欲求の発現に慣れていないため、たじろいでしまうのです。

一言で表現すれば、男性は「性交=射精」という固定観念から抜け出せないのであり、残念ながら女性の際限のない欲求と「たわむれる」「じらす」「性的な冒険心の探求」という選択肢を持っていません、

このため、深くて強烈な官能的快楽にめざめてしまった女性にただ「たじろぎ」、「驚いて」しまい、その挙句に「しらけて」しまうのです。

あえて下世話な言い方をすれば、色気を失った妻が、ある日突然、セクシーな仕草でSMプレイを求めて来たら、夫は驚きのあまり、ただ「疲れている」との口実で逃げ出してしまうのです。

ネット上には無防備に自己の性欲をさらけだしている若い女性がハンランしています。
男性たちが、いつまでも 「性交=射精」という固定観念にとらわれていると、こうした女性たちの激しい欲求に取り残される時代が到来すると思います。

女性にだって多様な性欲がある、否、女性のほうが柔軟で多様な性欲を秘めているんです。

次回は「SM]がテーマです。 

ライブチャット
ライブチャットとは、PCとWebカメラを駆使してインターネットを通じてお互の映像を見ながら意見交換する仕組みのことですが、当然のごとくアダルト系とノンアダルト系が存在します。

アダルト系の代表は「2(ツー)ショットチャット」と呼ばれる仕組みで、チャットレディと呼ばれる女性が自室風の狭いスタジオで待機しており、会員登録した男性が10分数千円の料金を支払って気に入ったチャットレディとエロいお話をします。
 
「2ショットチャット」の多くは、会員登録した男性にはチャットレディの映像が見えていますが、チャットレディには男性の映像は見えず、男性の音声だけが聞こえています。

さらに「2ショットチャット」中にチャットレディがオナニーを見せるとか、男性会員が遠隔操作でチャットレディの局部に当てられたバイブを動かす等のサービスもあります。

また「2ショットチャット」には「パーティチャット」と呼ばれるサービスがあり、複数の男性会員が一人のチャットレディとエロいお話をするとか、複数のチャットレディと、複数の男性会員がエロいお話をするサービスも存在します。

チャットレディの時給5000円ぐらいだそうで、風俗嬢のように男性のカラダに触れないので希望者も多く、女子大生やフリーター・主婦に人気があり、チャットレディの「質」もいいんだとか。

エロチャットは、サービスを提供する会社が地方にサテライトスタジオを置き、この会社のサーバーを通じてライブ中継することも可能であり、慣れてくると自宅でPCにWebカメラとサービスを提供する会社をつないでインターネットを経由してエロチャットする在宅チャットレディもいるそうです。

このため、「真面目」に働くと普通のOLさんより稼げるようで、女性誌やタウン情報誌等にはチャットレディ募集の広告がたくさん掲載されているんですよ。

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