脳内写生3

脳内写生は選ばれた少数の例外者のための案内表示であり、「飾り窓の天使」と連携したブログです。

2018年01月

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日本統治下の朝鮮半島は、日本帝国からの移住や移民によって開発されていたのであり、当時は、日本帝国の朝鮮総督が行政権・立法権をも持ち、さらに裁判所(司法権)も総督府所属部署として総督の指揮下にありました。
つまり、朝鮮半島は日本帝国に政治的・軍事的に支配されている地域であったのであり、朝鮮半島は日本帝国支配下の「植民地」でした。

「植民」(殖民)とは、ある国の国民または団体が、本国(宗主国)に従属する関係に置かれた地域に移住・定住して、経済活動や開拓活動などをすることであり、当時、欧米の列強国は日本を除くほとんどの国々を「植民地」にしている時代でした。

その当時、欧米の列強国は武力等により「植民地」を獲得し、「植民地」のすべてを支配し、「植民地」を完全に隷属させ、侵略によって「植民地」を増やすことは悪いことではなく、強い国々にとって「植民地」を支配し、その領土を拡張し、あらゆる「もの」と「人々」を搾取することは、むしろ当然のことであり、当時それは「奨励」すべきことであったのです。

また欧米の列強国は、当然のごとく植民地の住民を使役に刈り出したり、現地の女性を支配者のための「性の植民地」として利用していました。
当時は「身売り」(人身売買)も売春も違法ではなかったのです。

こうしたさまざまな「暴挙」が公然と許されたのが「植民地」の時代なのであり、こうした苦難を超えて、戦後、多くの国々が「植民地」からの独立を果たしています。

たとえば、世界の4分の1を「植民地」にしていた大英帝国は、香港を手に入れるために麻薬をばらまいて「アヘン戦争」を起こし、その結果、中国から香港を100年間割譲させていますが、中国も香港も、イギリスに対して反感を抱いていません。
また、朝鮮半島全体が中国の「植民地」であった時代もあるのですが韓国も北朝鮮も中国に対して反感を抱いていません。

韓国が「慰安婦問題」とか「徴用工問題」について日本に対して執拗に謝罪を要求して来ますが、過去の「植民地時代」の謝罪を求めても、その時代は「身売り」も「徴用工」も「性奴隷」も違法ではなかったのです。

否、たとえ日本が「植民地」時代の行為をさかのぼって謝罪したとしても、韓国が得るものはなにもないのであり、韓国はただ日本との関係修復に遅れを取るだけです。

かつての、侵略による「植民地」の時代を忘れることができない韓国や北朝鮮・中国の根強い「反日感情」は、日本というちっぽけで同じ東アジアの黄色人種に隷属させられたことが、いまも「気に入らない」「しゃくに障る」「我慢ならない」だけなのです。

同じことが米国の芸能界のセクハラ告発騒動にも当てはまります。
かつて米国の芸能界で横行したセクハラが、どうしても「気に入らない」「しゃくに障る」「我慢ならない」と女性たちが「me too」(私も同じめに会った)と告発し続けたのですが昨日(2018年1月28日)の米グラミー賞授賞式では、参加者が胸に白いバラを付けて「Time's Up」(タイムズ・アップ:もうセクハラはやめよう)、そして「ジェンダー(社会的性別)の平等」をアピールしました。

今月初めに開かれた米ゴールデン・グローブ賞の授賞式では、出席者が黒い衣装で参加し、セクハラに対する抗議を行いましたが、今回の胸に白いバラを付けてのセクハラ撲滅キャンペーン「Time's Up」は、「白バラは(社会的性別の平等に対する)敬意の象徴である。新しい始まりをたたえ、未来への希望を表明する」ものでした。

できることなら、「植民地時代」が「気に入らない」「しゃくに障る」「我慢ならない」「me too」(私も同じめに会った)との立場から抜けだして、「Time's Up」(終わりにしよう)、そして新たな始まりと未来への希望を持とうと、反日感情を抱き続ける韓国・北朝鮮・中国に、私は言いたい。

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「#metoo」とは「私もかつてセクハラを受けたことがある」と女性が告発する最近のブームのことです。

女性は被害者
男性は加害者
ナンパはセクハラ
というきわめて単純で一方的な告発であり、「私も(metoo)セクハラを受けた」と告発された男性は「冤罪」(えんざい)であることを反問する機会すら与えられません。
「#metoo」と呼ばれる告発には「時効」もなければ「反対尋問」のチャンスすらないフェアではない行為なのです。
【「#metoo」と呼ばれる告発には「時効」もなければ「反対尋問」のチャンスすらないフェアではない行為】と書くと憤慨する女性もいるでしょう。
では、それほどのセクハラと呼ばれる苦痛を、なぜいままで黙っていたのですか?

かつて「ウーマンリブ」とか「フェミニズム」と呼ばれる女性の権利を拡大しようとする運動がありましたが、この運動も「女性は被害者・男性は加害者・すべて男性が悪い」という少々稚拙(ちせつ)なものでした。

あのフェミニズムがなぜ衰退したのでしょうか?

「女性は被害者・男性は加害者・すべて男性が悪い」と男性を告発し続けると、結局、男性は女性を恐れて避けてしまう。
その損得勘定に女性自身が気付くのに、ずいぶん遠回りしたんです。

だから賢い女性は「セクハラだ」「#metooだ」と騒がず、男性に対して「YES」とか、男性の自尊心を推し量りながら婉曲(えんきょく)に「NO」という自己選択を下すことを学んだのです。

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フランスの女優ブリジット・バルドー(83)は、相次ぐ女優によるセクハラ告発について「偽善的」だと発言しました。
 
彼女は、かつて多くの女優が仕事を得るために、映画等のプロデューサーに自ら接近しておきながら、いま頃になって、セクハラを受けていたと言い出していると述べています。

ブリジット・バルドーは、かつて「BB」(ベベ)という愛称で知られたグラマラスな女優で、1950年頃から40本以上の映画に出演し、米プレイボーイ誌の「20世紀で最もセクシーな女優」ベスト5に選ばれており、彼女は「私は、美しいとか小さくてかわいいお尻をしているなどと言われるのはとても気分が良かった。(そういった男性からの賛辞を浴びることで女優は美しくなれる)」と話しています。

女性は、好むと好まざるとにかかわらず、男性から性的な対象として見られる存在です。
また、多くの女性は、意識するか意識しないかにかかわらず、男性から性的な対象として見られることを巧みに利用して振る舞っています。

女性が好むタイプの男性からのアプローチは受け入れる。
しかし女性が好まないタイプの男性からのアプローチは「セクハラ」と見なす。
「セクハラ」には、こうした女性の気まぐれな側面があることを指摘しておきます。

画像はイメージです。


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不倫は刑法上の犯罪ではないのに、メディアに大々的にあばかれ、世間の晒し者にされます。

政治家や公務員・教員ならいざしらず、芸能人やタレント・アナウンサー等の不倫が次々とあばかれていますが、不倫というプライベートな恋愛が公にされることで、当事者が社会的に抹殺されるほど不倫は悪いことなのでしょうか。

不倫は本来、不貞行為として民法770条の離婚の原因に該当することがありますが、あくまでもそれは当事者間におけるの民法上の賠償責任にとどまるはずです。

不倫は犯罪ではない、当事者間のプライベートな問題であるのに、メディアによってフレームアップされ、法律のワクを超えて、大衆による「リンチ」(私的処刑)のような形で才能がある人物が社会的に抹殺されてしまいます。

結局、メディアは不倫だ不倫だと騒ぎますが、不倫は犯罪ではないのですから、これは「メディアによる不倫いじめ」なのであり、「不倫ハラスメント」と呼ぶべきなんです。
なんでもかんでも「セクハラ」と決めつけられると、男性が女性を口説くことすらはばかられるような社会になりかねません。

愛する人と親密になることは、たとえ配偶者がいたとしても、誰にも止められない激しい情恋が根底にあるのであり、忍ぶ恋だからこそ当事者にとってピュアな恋でもあります。

不倫は、あくまでも当事者の自己責任であり、他人の色恋に干渉するのは「ヤボ」ってもんです。

わが国は、韓国という国は、国民感情によって裁判や政治判断がねじ曲げられ、国際的な約束までもが何度も一方的に反故(ホゴ)にされる事態を呆れながら眺めていますが、実はわが国の不倫騒動だってメディアによる「リンチ」であり、「不倫ハラスメント」であることを認識すべきなんです。


西部邁

「大衆への反逆」(副題:保守主義の大衆化が私は怖い)の著者 西部 邁が入水自死(じゅすいじし)しました。
老衰や病死はいやだ、介護は受けたくない、自分の人生は自分の意志で幕を閉じると公言していた、西部 邁にふさわしい「葉隠」的な自決の仕方で、そのいさぎよさは、三島由紀夫の割腹(切腹)自殺を連想させるほどの衝撃でした。


西部 邁は、大衆は大衆のレベルに留まるべきであり、民主主義は大衆迎合主義(ポピュリズム)に陥る危険性をはらんでいると警鐘を鳴らし続けた貴重な思想家でした。


オルテガ・イ・ガセット著「大衆の反逆」と「大衆への反逆」は一対の書籍であり、ポピュリズムそのもののトランプ大統領や韓国の文大統領の出現を予言するような名著でしたし、清水幾太郎著「日本よ国家たれ」は、三島由紀夫の「自衛隊は軍隊であるべきだ」という主張が結局正しかったことを裏付けています。

その清水幾太郎は2回も原爆を落とされたわが国こそ核武装すべきであり、自衛隊を軍隊ではないと言いくるめ、非核三原則を堅持する日本は独立国家とは言えないと述べています。


なお、本文は自殺を助長したり、自殺をそそのかす意図はありません。
高名な思想家や哲学者・作家や芸術家の自死自決は、絶望やウツによる「生きていたくない」とか「死にたい」と願う「単なる自殺」や、「怖いから一緒に自殺して欲しい」とか、「自分一人では死ねないので自殺を手助けして欲しい」というレベルの自殺ではなく、自分の人生は自分の意志で自分らしく使い切る、自分のことは自分で決着を付ける、自分の始末は自分でつけるという強い覚悟にもとづいた「人生最大最高の選択」なのであり、当人にとって死を選ぶことは「名誉ある決断」なのです。

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