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東京湾は江戸時代から埋め立てが行われて来ました。
東京湾の埋め立ては山を削って海を埋め立てたのではなく、古くは解体された住宅の土壁や瓦、火災の廃棄物、関東大震災の瓦礫、一般の生活ゴミ、河川や湾内の浚渫(しゅんせつ)に伴うヘドロが埋め立てられました。


1950年代半ばに、わが国は高度経済成長期を迎え、生活は大量生産・大量消費・大量廃棄の時代へ、「消費は美徳」と言われる時代へと変貌しました。
その結果、都会では廃棄物が増大すると共にゴミも次第に多様化し、最終処分場である埋立地の逼迫や清掃工場から出る煤煙・焼却灰の問題など、ゴミ問題は「ゴミ戦争」と呼ばれるような状況になりました。

特に東京都では1950年代後半には、清掃工場の処理能力や清掃工場そのものの数が追いつかず、さらに山間部での埋立処分場も満杯となり、廃棄されるゴミの約7割がそのまま海面に埋め立てられる「海面埋立」が中心となりました。

江戸・東京における「海面埋立」による最終処分場は、明暦元年(1655年)から一貫して現在の江東区のあたりにゴミをそのまま埋め立ててきたのです。

この最終処分場とされた埋立地には他の区からも未処理のごみや焼却灰・産業廃棄物などを満載した収集車やダンプカーなどが出入りし、1971年には都内のゴミの7割が江東区に運ばれ、毎日5,000台以上のゴミ収集車等が出入りしたことから、この周辺では交通渋滞や悪臭・ゴミ火災・ハエやカラスの発生などが深刻な問題となっていました。

しかもこの埋立地には厳しい監視がなく、「処分に困ったものは何でも埋立地に運んで捨てることができた」ことです。
しかもその場所を「夢の島」(1957年)と呼んでいたんです。


蛇足ですが、足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で、女子高生を殺してドラム缶に詰めコンクリートを流し込んだドラム缶も、江東区若洲の埋立地(現:海浜公園)場に遺棄されています。
換言すれば死体だって捨てることが可能な場所だったのです。


とにかく処分に困ったものは重金属でも化学薬品でも、何でもかんでも埋立地に運んで捨ててきたのは他ならぬ都民であり、それを東京都は長年「仕方ない」と黙認してきたのです。

いまさら「豊洲はヤバい」「あんな場所に食品を扱う市場を移転すべきではない」なんて都民には言う資格はありません。

舞浜の某レジャーランドも、有明のテニス場も、ウォーターフロントのタワーマンションも、4年後のボート会場の予定地も、もともとは全部埋立地であって、処分に困ったものは何でも埋立地に運んで捨ててきた、あのヤバい場所に変わりはないんです。