ベビーカー2
幼い我が子を厳しく「しつける」ことと、幼い我が子を厳しく叱ることの違いはどこにあるのか?
幼い我が子を厳しく叱ることと、幼い我が子を虐待することの違いはなにか?
先ほど、電車の中で「しつける」ことと、「厳しく叱る」ことと、「虐待する」ことの違いを理解していない若い母親(画像)と遭遇しました。

ベビカーに乗った男児は常に大声で母親にわがままな要求を押しつけ、母親はひたすらその要求に応えようとします。
「お菓子?」「チョコレートがいい」「チョコレートはさっき食べたでしょう?」(母親、別のお菓子を取り出す)「やだ!チョコレートがいい!」「じゃどこかで買うわ」「やだァ~ギャア~!チョコレートがいい、やだァ~ギャア~!チョコレート!」
男児の泣きわめく大声が電車の中に響けば響くほど母親は際限もなく男児に妥協していく。

母親が「しつけ」もしない、叱ることもしない、その結果、男児はわがまま放題に大声で騒ぎ、騒いで泣き叫べばなんでも望みがかなうことを覚えてしまう。

一人っ子政策で過保護に育った中国の大人が、国の内外でどれだけ非常識な行動を取るのか、思い出して見て下さい。
彼らは、電車のドアが開くと同時に整列乗車も無視して、降りる乗客を押しのけるように大きなスーツケースを車内に押し込んで来て、空いた座席があれば同行者の分まで平然と占領します。
そしてその子どもは、靴を履いたまま座席に登り、大声ではしゃいで飛び跳ねはじめる・・・

少子化で過保護に我が子を育てただけでなく、我が子を「しつけ」るのでもなく、人前で騒ぐことを「厳しく叱る」こともせず、虐待していると思われることを恐れて、ひたすら子どもの要求を受け入れて甘やかしていたら、やがて子どもは「自分は何をしても許される王様だ・怪物なのだ」と思い込みます。

他人だから干渉すべきではないのかもしれない、お節介かもしれない。
しかし、他人だからこそ冷静に指摘できることもある。
子どもの頃、見知らぬ大人に叱られた記憶は歳を重ねても鮮明に覚えています。
見知らぬ大人として、堂々と「他人の子どもをしつける・叱る習慣」を、そして、あえて他人の子どもに「人前で騒ぐな」と注意することで「世の中には恐い大人がいるんだ」ということを子どもに記憶させる大人の権利をぜひ復活させたいと思っています。