2015年3月1日のブログ「LAINはムラ社会である」の中で、LAINは【古典的な「村八分」による仲間外れや、村人から嫌われるのではないか等の不安や自責の念の根底には、閉鎖的かつ因習的な小規模共同体の中で、無視されたり悪口を言われるのではないかという恐怖心があるのであり、それは「群れの中でのみ安心できる弱い動物特有の心理」なのであり、「群れの中でのみ安心できる動物」は、一匹オオカミ的な独立独行型の動物と異なり、「自分自身を、閉鎖的かつ因習的な小規模共同体と同化させようとする付和雷同的な衆愚(しゅうぐう)を形成し、自分を見失う状況に自ら「ハマ」りたがります】
【実は「群れの中でのみ安心できる動物」は極度に「誤解されることを恐れる」のであり、誤解されないためにスマホと「LAIN」が手放せないと言っても過言ではありません・・・何かに依存していないと不安に駆られる・極度に孤独や孤立を恐れる、それはアンバランスな心理状態なのですが、衆愚はこうした状況を「スマホがないと生きていけない」(スマホ依存症)とか、「『LINE』がないと生活がつまらない」と表現します】と書きました。

あれから約5年。
新型コロナウイルスの流行に伴う「密集・密閉・密接」(三密)を避ける「ソーシャルディスタンス」が常態化した今日、約5年前の上記のブログを読み返したとき、実は「三密」こそが大衆・民衆・群衆の特徴だったと気付きました。
一極集中と呼ばれた都市化そのものも、学校という仕組みも、決められた時間に出社して働くことも、高速大量輸送のための航空機や新幹線や高速バスも、まさに「三密」そのものであり、大衆・民衆・群衆なくしては成り立たない仕組みです。

観光地が「来ないで下さい」とか、隣の県が県境を超えて来ないで欲しい、人に会うな、近くでしゃべるな、握手するな、夜の繁華街に行くなという「ソーシャルディスタンス」は、換言すれば「よそ者を拒む古典的なムラ社会」のほうがウイルスに対して有効であり、「ソーシャルディスタンス」を守らない者は「自粛警察」や「マスク警察」を自称する者たちによって「村八分」にされるという事態を招くことになります。

ただし、古典的なムラ社会と異なるのは「LAIN」等のソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)があることであり、テレワークや在宅勤務が普及していることであり、SNSが排他的な「村八分」に荷担するのか、それとも親密なコミュニケーションツールとなり得るのか、あるいは【「自分自身を、閉鎖的かつ因習的な小規模共同体と同化させようとする付和雷同的な衆愚(しゅうぐう)を形成し、自分を見失う状況に自ら「ハマ」りたがる】のか、私は冷静に観察しようと思っています。
(意味が分からない読者は、理解しないでいいのです、これはごく少数の選ばれた例外者へのメッセージだからです)