クルマを暴走させて、道路を清掃していた作業員や警備員を無差別に3人殺傷した事件。

27歳の平凡な青年は「神になりたかった」と犯行の動機を供述したそうです。

わが国では、人は死ねば「ホトケ」になるとか、戦死すれば靖国神社でまつられる、あるいは聖徳太子や菅原道真・徳川家康・豊臣秀吉等も「神」としてまつられています。

キリスト教でも殉教者や功績があった聖職者は「聖人」としてまつられています。

たしかにわが国では、人間が神になることが不可能ではないのですが、平凡な目立たない青年が推定150kmのスピードで道路を清掃していた作業員や警備員を跳ねて無差別に3人殺傷したら、その青年が神になれるという裏付けがありません。
要するに彼は「狂信者」なんです。
環境問題について、あれこれ激しく発言する人も「狂信者」です。
人間は環境を破壊せずに快適な生活ができないのですから。

神仏は常に「不条理の行使」をします。
たとえば、平穏な生活をしている善良な人たちを突然の災害で命を奪う、あるいは努力しても努力しても報われずに非業の人生を送るなど、神仏は決して公平ではないし、善良な人のみを救済する訳ではないし、悪人に幸運をもたらすこともあります。
努力なんて報われない、良かれと思って行ったことが恨まれる、神仏は常に「不条理の行使」をする、その意味で彼は「神」に近づいたのかも知れませんが、彼をうやまう人はおりません。

SNS等でしきりに「私は解脱した・覚醒した」と強調し、毎日、垂れ流し的に道徳的な説教・環境問題等で自己満足的な論理や予言めいた言説を拡散している人物がいます。

しかし本当に真に「解脱」したら、どうしようもない救いがたい大衆・度しがたい衆愚・不満のかたまりの民衆のことなど「もはやどうでもいいことである」と深く気付く(懐疑する)のであり、自己の陶冶・自己への専念以外に真の解脱も真の覚醒もないと「絶望」するのです。

あたは「どうしようもない救いがたい大衆・度しがたい衆愚・不満のかたまりの民衆」の中の一人なのか、
それとも、「民衆のことなどもはやどうでもいいことであると強く懐疑して、自己の陶冶・自己への専念に務めた上で、実は真の解脱も真の覚醒などこの世には存在しないと絶望する存在」であるのか、果たしてどちらなのでしょうか。

このブログはあえて「アダルト」という場違いなカテゴリーの中に潜むことで、大衆には断じて理解できない異質なメッセージを、ごく一部の選ばれた「例外者」のための表示灯・案内板として足かけ10年続けております。