くたばれ正論
【この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。
正しすぎることからは、何も生まれない。
常識を積み重ねても、所詮それは常識以外の何物でもないから。
自分の感性を守れ。
自分の衝動を守れ。
自分の中のバカを守れ。本能が面白いと感じる方へ動くんだ。
まっすぐに、愚直に、大きくいこう。】

今年の「成人の日」に全国紙に掲載された「レッドブル」の広告。

このキャッチコピーに様々な賛同や批判が寄せられていますが、「レッドブル」にとっては、反響が大きければ広告としては大成功と思っているでしょう。

ところで、まず「正しさ」とは何か?
もし一方的な正義であれは、それはただの独善や独裁にすぎない。
コロナ禍の中で「自粛警察」を名乗ったり、「他県ナンバー狩り」を「正しい」と信じている輩(やから)だって「正しい」と信じている。

「君の美しいカド」とは何か?
その「カド」が、若さゆえのツッパリや肩肘張った悪ガキ風の生き方であり、それが美しいというのであれば、その見識は一般的に受け入れがたい。

「常識」とは何か?
それが一般道徳や社会規範のことであるとしたら、常識にとらわれないことは必要かもしれないが、大衆社会のなかで一般道徳や社会規範を逸脱したら、居場所がなくなることも「常識」に含まれる。
大衆は、一般道徳や社会規範という見えない檻の中で、それが「自由」で「常識」であると信じて生きている大衆が、大衆に向かって「その常識から脱走せよ」とそそのかしているのであれば、それは妄言・虚言である。
大衆自身が一般道徳や社会規範という見えない檻から脱走すれば、間違いなく世捨て人かホームレスになる。

「正論」とは何を基準にしているのか?
まず「正論」そのものを定義すべきである。なにをもって「正論」とするのか。
大衆の過半数が抱く意見を「正論」と見なすのか、大衆より高所大所から見た妥当性や合理性がある「判断」を正論とみなすのか。
デマやフェイクニュースを正論として拡散させようとする時代に、どの座標軸を「正論」とみなすのか。
大衆の過半数が抱く意見を「正論」と見なし、これを破壊しようとするのであれば、それはもはや民主主義ではなく「アナーキー」(無政府主義)な人物となる。カフェインたっぷりのドリンクをがぶ飲みしてアナーキストを目指せと扇動するのだろうか。

感性や衝動を守れとは何か?
個人の感性は尊重すべきである、それが他者を傷付けない過激な個性でなければであるが。
「衝動を守れ」とは、衝動的に生きろ・衝動を抑えるなという意味であれば、それは犯罪を助長する扇動である。
たとえば、目の前にミニスカの女性がいる、痴漢したい、それが感性であり衝動である、そして尻に触れば犯罪者となる。
「感性や衝動を守る」ことがもし「自由」のことであるとすれば「自由」とは何か、まずその定義をすべきである。
大衆は、一般道徳や社会規範という見えない檻の中で、それが「自由」であると日々信じて生活している。
その「自由」のなかで「感性や衝動を守れ」ということは、禁止やタブーだらけの見えない檻の中で少しばかりの「感性や衝動」を発揮して満足していろという状況に帰結する。

「バカを守れ」との呼びかけも、はたして未熟な若者が己の中のバカに気付けるのだろうか?
自分の愚かさに気付くのに、人間はどれほどの時間と人生を無駄にしてきたことか。
この「バカ」は、単に「ばかげた行為」「ふざけた行為」等であるとすれば、その「バカ」を守ることにどれだけの意義があるのだろうか。

無知・アホ・愚かを「バカ」と呼ぶことと、「愚直」であることとは相容れないことである。
地道に「愚直」に毎日同じ作業を続けている職人を「バカ」とは呼ばないであろう。
しかもその毎日同じ作業を続けている愚直な職人は、断じて「大きく行こう」などとは考えない。
それが「愚直さ」の本質であるからだ。

「本能が面白いと感じる方へ動け」とは、性欲・食欲・金銭欲・睡眠欲・名誉欲等の面白いと感じた本能のままに動けという意味であると思う。
人間が心底抱いてる本能は「怠けたい・楽をしたい・贅沢をしたい・浪費したい・おいしいものを食べたい」という快楽脳の欲求である。
新成人に対して「本能が面白いと感じる方へ動け」と扇動することは成人式の後、路上で一升瓶の一気飲みや回し飲みをする若者を賞賛するに等しい。
大衆は「怠けたい・楽をしたい・贅沢をしたい・浪費したい・おいしいものを食べたい」という快楽脳の欲求を抑えて隠して勤勉であることを美徳として働くことで贅沢や消費や美食を手に入れている。
それを否定して新成人にただ「面白いと感じる方へ動け」とは、「自滅」することを進めているに等しい。

結局、この「くたばれ、正論」という広告は一見過激に見えるが中身がなく、むしろこの広告は単なる扇動・アジテーション・空虚なメッセージ・負け犬の遠吠えであって、さらに申せば、これは誇張された「大言壮語(たいげんそうご)」であり、あり得ない「大風呂敷」、ある種の「誇大広告(イメージ宣伝)なんです。

そのイメージ宣伝に、これほどの情熱を注いで批判する私のほうが「馬鹿」なのかもしれません。